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「リゼット、早くしてくれ。ミレイユが苦しんでいるんだ」
王宮治療院の最奥にある特別治療室で、第一王子アルベルトの声が響いた。
その声には焦りが滲んでいたが、リゼットを気遣う響きはなかった。
磨き抜かれた白い石床の中央には大きな寝台が置かれ、妹のミレイユが横たわっている。いつもなら血色のよい頬は紙のように白く、その首筋から鎖骨へかけて、黒い蔦のような紋様が浮かび上がっていた。
呪滓に侵された者に現れる呪紋だった。
しかも、リゼットがこれまで見たことのあるものとは明らかに違う。
黒い筋が脈を打つたび、ミレイユの身体が小さく震え、唇から苦しそうな息が漏れる。
「お姉様……」
弱々しい声で呼ばれて、リゼットは寝台のそばへ一歩近づいた。
その途端、傍らにいた宮廷魔術師長グレイグが低い声で制した。
「お待ちください、リゼット様。まだ触れてはなりません」
アルベルトが苛立ったように振り返った。
「なぜだ。触れなければ祈紡ぎは使えないのだろう。ミレイユは先ほどからずっと苦しんでいる」
「存じております。しかし、今回の呪いは通常の呪滓とは性質が違います。リゼット様に移した場合、どの程度の反動が生じるか、私にも判断できません」
「反動なら、いつものことではないか」
あまりにも簡単に言われ、リゼットは目を伏せた。
いつものこと。
確かに、アルベルトにとってはそうなのだろう。
祈紡ぎの力を使ったあと、リゼットが頭痛で三日寝込んだこともあった。高熱を出して一週間起き上がれなかったこともある。十二歳の頃には、遠縁の侯爵夫人を救うために大きな呪いを引き受け、その代わりに子供の頃よく遊んだ庭師の名前を完全に忘れた。
十四歳の時には父の友人を救い、その結果、初めて習った刺繍の先生の顔を思い出せなくなった。
十六歳では王宮の侍女を。
十八歳では騎士団長の息子を。
そうして、一つずつ。
少しずつ。
自分という人間を作っていたはずの何かが抜け落ちていった。
けれど、そのたびに周囲から言われてきた。
命がなくなったわけではない。
歩ける。
話せる。
名前も覚えている。
だったら大丈夫だ、と。
「殿下」
グレイグは珍しくアルベルトから視線を逸らさなかった。
「今回の呪紋をご覧ください。通常のものより色が濃く、しかも心臓へ向かって伸びています。これほど強い呪いを祈紡ぎで移した場合、失われるものが軽い記憶だけで済むとは限りません」
アルベルトの眉がわずかに動いた。
「つまり?」
「リゼット様にとって、非常に大切な記憶を失う恐れがあります」
治療室が静まり返った。
リゼットの母、マルグリットが胸元で手を組む。
父のエドガー伯爵は険しい顔をしながらも何も言わない。
寝台の上では、ミレイユが浅い呼吸を繰り返していた。
アルベルトは数秒ほど黙り、それから尋ねた。
「非常に大切な記憶というのは、具体的には何だ」
「分かりません。祈紡ぎの代償として何が失われるかを選ぶことはできませんので。幼少期の記憶かもしれませんし、家族との思い出かもしれない。あるいは――」
グレイグは言い淀んだ。
リゼットには、その先が分かった。
「人そのものを、忘れることもあります」
自分から口にすると、喉の奥が少し震えた。
グレイグが重々しく頷く。
「可能性は否定できません」
母が息を呑んだ。
リゼットはほんの少しだけ期待した。
ようやく母が、自分にも失いたくないものがあるのだと理解してくれるかもしれない。
しかし、母が次に口にした言葉は違った。
「でも……命を失うわけではないのでしょう?」
胸の奥で、何かが冷えた。
「お母様」
「もちろん、あなたが心配ではないと言っているわけではないのよ。そんなはずはないでしょう? あなたもミレイユも、私にとっては大切な娘だもの。ただ、今はこの子の命が危ないの。だったら……ねえ、リゼット。あなたなら分かるでしょう?」
母は困ったように微笑んだ。
幼い頃から何度も見てきた顔だった。
リゼットが我慢すればすべて丸く収まるとき、母はいつもこういう顔をした。
申し訳なさそうで。
優しそうで。
けれど結局、断る余地など与えてくれない。
「お願いよ、リゼット。あなたは丈夫でしょう? ミレイユは違うの。この子は昔から身体も弱いし、怖いことにも慣れていない。あなたは何度も祈紡ぎを使ってきたじゃない」
「母さん、その言い方はよくない」
父がたしなめたので、リゼットは思わず彼を見た。
だが、それもほんの一瞬の期待だった。
父は続けた。
「リゼットが犠牲になって当然という話ではない。しかし、家族というのは困った時に助け合うものだ。ミレイユを救えるのがリゼットしかいないのなら、まずは救う方法を考えるべきだろう」
結局、同じだった。
言葉を柔らかくしているだけで、求めている答えは一つしかない。
助けなさい。
姉なのだから。
家族なのだから。
あなたなら耐えられるのだから。
リゼットはゆっくり息を吐いた。
すると寝台の上から、かすかな声が聞こえた。
「お姉様……」
ミレイユがこちらを見ていた。
大きな青い目には涙が溜まっている。
十七歳になっても、泣きそうになると幼い頃と変わらない顔をする。
リゼットは妹を嫌いではなかった。
いや、本当は好きだった。
我が儘なところもある。
自分が可愛がられることを当然だと思っているところもある。
何かあるたび姉を頼り、それでいて自分のほうが両親や周囲から愛されていることには無頓着だった。
それでも、幼い頃のミレイユが熱を出して眠れない夜に、朝まで手を握ったことを覚えている。
転んで膝を擦りむいた妹を背負って帰ったことも。
初めて舞踏会へ行く前夜、二人でこっそり菓子を食べながら衣装の話をしたことも。
少なくとも、まだ覚えている。
「お姉様、私……死ぬの?」
「ミレイユ」
「嫌よ。私、まだ死にたくない。王都の外にも行ったことがないし、結婚だってしていないし……まだ、やりたいことがいっぱいあるの」
その言葉に嘘はなかった。
怖いのだ。
十七歳の少女が、突然自分の死を突きつけられている。
リゼットの胸は痛んだ。
助けたいと思った。
できるなら助けてやりたい。
その気持ちだけは確かだった。
だからこそ、自分がこんなにも迷っていることがひどく醜いことのように思えた。
「グレイグ様」
リゼットは魔術師長へ尋ねた。
「もし私がこの呪いを引き受ければ、ミレイユは助かるのですね?」
「……可能性は非常に高いです」
「私が死ぬ可能性は?」
「それは低いでしょう。ただし、先ほど申し上げた通り、どの記憶が失われるかは分かりません。それに、一度失われた記憶は基本的に戻りません」
母がすぐに言った。
「だったらお願い、リゼット。ミレイユを助けてあげて」
リゼットは答えられなかった。
無意識に髪へ手を伸ばす。
銀色の髪をまとめている、小さな青い石の髪飾りに指が触れた。
母方の祖母からもらったものだった。
十歳の誕生日だったと思う。
祖母が王都まで会いに来てくれて、この髪飾りを贈ってくれた。
よく似合う。
あなたはきっと、綺麗な娘になる。
そんなことを言ってくれた気がする。
気がするだけだった。
祖母の声が思い出せない。
少し低かっただろうか。
それとも高かった?
優しい話し方だったことは覚えている。
けれど、声そのものがもうない。
顔も曖昧になっている。
鼻の形は。
目の色は。
笑った時にできる皺は、右だったか左だったか。
何も分からない。
数年前に祈紡ぎを使ったあと、少しずつ抜け落ちたのだ。
気づいた時には、もう戻らなかった。
リゼットは髪飾りを握った。
「嫌です」
誰かが小さく息を呑んだ。
リゼット自身も、自分の声なのか分からないほど、その言葉は耳慣れなかった。
母が瞬きをする。
「……今、何と言ったの?」
「嫌です」
二度目は、一度目よりはっきり言えた。
父の顔が強張った。
アルベルトが信じられないものを見るようにリゼットを見る。
「リゼット、状況が分かっているのか?」
「分かっています」
「ミレイユの命が危ないんだぞ」
「分かっています」
「なら、なぜ拒む?」
責められている。
それも分かっていた。
リゼットは唇を噛みそうになり、寸前でやめた。
今までならここで謝っていた。
申し訳ありません。
私が間違っていました。
すぐに治療します。
そう言えば、誰も困らない。
両親も安心する。
アルベルトも自分を見直してくれるかもしれない。
妹も助かる。
ただし、自分が何かを失う。
それだけだ。
いつもそうだった。
「怖いからです」
ようやく言うと、アルベルトが眉をひそめた。
「怖い?」
「はい。忘れてしまうことが怖いのです」
「だが、君はこれまでも――」
「これまでも怖かったです」
言葉が重なった。
自分でも驚いた。
婚約者の言葉を遮ったことなど、一度もなかった。
「十二歳の時も怖かったです。十四歳の時も、十六歳の時も。祈紡ぎを使ったあと、目を覚ますたびに、自分が何を忘れたのか分からないことが怖かった。周りの人が知っている昔の私を、私だけが知らないことも怖かった」
母が辛そうな顔をする。
「リゼット、そんな言い方をしなくても……」
「では、どう言えばよかったのですか?」
母が黙った。
リゼットは自分でも止められなくなっていた。
長い間、胸の奥へ押し込めていたものが、少しずつ形になって出てくる。
「私はずっと、大丈夫だと言われてきました。記憶を少しくらい失っても生きているのだから、大丈夫だと。けれど、私は祖母の声を覚えていません。十二歳まで毎年誕生日を祝ってくれた人なのに、もう声を思い出せないのです」
青い石の髪飾りを握る指に力が入った。
「次は誰を忘れるのでしょう。お父様でしょうか。お母様でしょうか。ミレイユでしょうか。それとも――」
リゼットはアルベルトを見る。
五年前から婚約者だった男。
最初に庭園を歩いた日のことは、まだ覚えている。
十五歳の誕生日にもらった白い花も。
もっとも、その花の名前はもう思い出せなかった。
「殿下のことかもしれません」
アルベルトの表情がわずかに揺れた。
その反応を見て、リゼットは胸の奥でほんの少しだけ期待した。
自分を失うかもしれない。
その意味を今度こそ理解してくれるのではないかと。
アルベルトは寝台のミレイユを見た。
苦しそうに息をする少女を見て、それからリゼットへ視線を戻す。
「それでも」
彼は言った。
「今はミレイユの命が先だ」
期待は、音もなく砕けた。
「リゼット。君が怖いことは分かった。私だって、君に何かを失ってほしいわけではない。しかし、人の命と記憶を同じ秤に載せることはできないだろう」
「……同じ秤に載せているつもりはありません」
「なら、治してくれ。もし私のことを忘れたとしても、また思い出を作ればいい」
その瞬間だった。
治療室の音がすべて遠ざかった気がした。
ミレイユの苦しそうな呼吸も。
母のすすり泣く声も。
魔術師たちの衣擦れも。
何も聞こえない。
ただアルベルトの言葉だけが、妙にはっきり残っていた。
また思い出を作ればいい。
リゼットは彼の顔を見つめた。
整った顔。
子供の頃から将来の国王になるために教育されてきた男。
リゼットもいつか、この人の隣に立つものだと思っていた。
好きだったのかもしれない。
少なくとも、好きになろうとはしていた。
けれど今、その気持ちまで急速に冷えていくのが分かった。
アルベルトはきっと悪意で言ったのではない。
本当にそう思っているのだ。
失ったなら、また作ればいい。
忘れたなら、もう一度覚えればいい。
その程度のことなのだと。
リゼットは左手を見た。
薬指には、王家の紋章が刻まれた婚約指輪がある。
五年間、一度も外したことがなかった。
「殿下」
「何だ」
「一つだけ、よく分かりました」
リゼットは指輪へ右手を添えた。
少しきつくなっていた指輪は、思ったより簡単には抜けなかった。
何度か回して、ようやく外す。
指輪のあった場所だけ、白い跡が残った。
「リゼット?」
アルベルトの声に戸惑いが混じる。
リゼットは外した指輪を掌に置き、しばらく見つめてから、彼へ差し出した。
「記憶なら、また新しいものを作ればいいと、殿下はおっしゃいましたね」
「ああ。だから私は――」
「では、その新しい思い出を、私はあなたとは作りません」
今度こそ、治療室から完全に言葉が消えた。
アルベルトは差し出された指輪とリゼットの顔を交互に見ていた。
理解できないようだった。
当然だろう。
今まで一度として逆らったことのない婚約者が、自分から指輪を返しているのだから。
「何を……言っている?」
リゼットは不思議なくらい静かだった。
怖くないわけではない。
足は震えていた。
胸も苦しい。
これから何が起こるのか分からない。
王太子との婚約を自分から投げ出すなど、伯爵令嬢としてどれほど愚かなことなのかも分かっている。
それでも。
もう一度指輪をはめたいとは思わなかった。
「婚約を、解消してください」
母が叫んだ。
「リゼット!」
父も一歩踏み出す。
「お前、自分が何を言っているのか本当に分かっているのか!」
「分かっています」
リゼットは父へ向き直った。
「たぶん、生まれて初めて、自分が何を言っているのか分かっています」
その言葉を口にした時、なぜか泣きそうになった。
今まで自分が言ってきたことの多くは、誰かが望んでいる言葉だったのかもしれない。
優しい姉。
従順な娘。
王太子に相応しい婚約者。
希少な祈紡ぎ。
そのどれもが自分ではある。
けれど、その奥にいるリゼット自身が何を嫌がり、何を失いたくないのかを、誰にも伝えてこなかった。
いや。
伝えてはいけないと思っていた。
「お姉様……」
ミレイユの声がした。
リゼットは妹を見る。
助けたい気持ちは消えていない。
だから余計に苦しかった。
それでも、自分を全部差し出していい理由にはならない。
「ごめんなさい、ミレイユ」
リゼットは静かに言った。
「あなたに死んでほしいわけではないの。でも、私も……私でなくなるのは怖いの」
ミレイユは何も答えなかった。
頬を涙が伝う。
それを見て胸は痛んだ。
痛んでも、指輪を戻す気にはならなかった。
リゼットは再びアルベルトへ手を差し出す。
その掌には、五年間彼女の未来だった指輪が載っている。
「お返しします」
アルベルトは受け取らなかった。
「私は婚約解消など認めていない」
「では、認めていただけるまでお願い申し上げます」
「リゼット」
「殿下」
二人の視線が正面からぶつかった。
これまでリゼットは、いつも一歩引いていた。
けれど今夜だけは、逃げなかった。
「私の記憶は、殿下のものではありません」
アルベルトの顔から、初めて言葉が消えた。
リゼットは彼の返事を待たず、近くの机へ指輪を置いた。
小さな金属音が、やけに大きく治療室へ響いた。
その音を聞いた瞬間、リゼットはようやく理解した。
自分は今、本当に戻れないところまで来たのだ。
けれど不思議なことに、後悔より先に胸へ浮かんだのは、ほんのわずかな安堵だった。
十八年間で初めて。
リゼット・アーヴェルは、自分のために「嫌だ」と言った。
第41話 黒狼公爵の贈り物は可愛くないヴァルドが贈り物について悩んでいるらしい。そんな話をリゼットが耳にしたのは、本人からではなかった。昼前、資料室へ入った途端、ノエルが妙に気まずそうな顔で机の上の紙を裏返したのである。「今、何を隠しました?」「何も隠していません」「では、その紙を見せてください」「これは業務とは関係のない紙なので」「余計に気になります」ノエルは目を逸らした。その隣でガレスは黙々と仕事を続けているが、いつもより筆の動きが速い。こういう時のガレスは、絶対に事情を知っているのだとリゼットも最近分かってきた。「ガレス」「私に振らないでいただけますかな」「まだ何も聞いていません」「聞かれる前にお断りしておきます」「それなら、やっぱり何かあるのでしょう?」返事がない。リゼットはノエルへ視線を戻した。「見せてください」「嫌です」「どうして?」「俺の命が惜しいので」「そこまで?」「大げさではありません。閣下に知られたら、本当に一週間くらい嫌な仕事を回されます」それは少し見てみたい。いや、違う。「公爵様に関係するものなのですか?」ノエルが黙った。答えたも同然だった。リゼットは机を回り込もうとする。ノエルが慌てて紙を持ち上げ、背中へ隠した。「リゼット様」「何です?」「夫婦でも、見ない方がいいものはあります」「それは正論ですけど、今言われると怪しすぎます」
第40話 それは求婚ですか、政治交渉ですか婚姻継続意思書へ署名した翌日、リゼットは少しだけ後悔していた。婚姻を続けると決めたことではない。そこについては、朝になっても気持ちは変わらなかった。ヴァルドの妻でいる。北方に残る。もっと彼を知っていく。それは、今の自分が選んだことだと思える。問題は。昨夜、記憶帳へ書いた最後の一文だった。『好きになってはいけない理由も、もうない気がする』朝。目覚めて。最初にそれを読んだ時。リゼットはしばらく寝台から出られなかった。「……何を書いているの、私は」自分で書いた。誰にも強制されていない。眠気に負けていたわけでもない。昨夜は確かにそう思った。だから。消すのも違う気がする。しかし。この記憶帳は。ヴァルドも読む。そこ。完全に忘れていたわけではない。でも。書いている時には。ほとんど意識していなかった。「公爵様が読んだら」顔が熱くなる。好きになってはいけない理由もない。これは。かなり。危険な文章ではないだろうか。好きです。ではない。でも。好きになるかもしれません。くらいには。読める。いや。
第39話 今の私も、この結婚を選びます翌朝、リゼットが目を覚ました時、最初に見たのは枕元の記憶帳だった。昨夜書いた最後の一文。『今の私が、この結婚を選びたいと思えたら、その時は自分の名前で答えたい』そこまで書いて眠った。答えはまだ出ていない。そう思っていた。けれど、一晩眠ってみても、胸の中に残っている感情は変わらなかった。ヴァルドに婚姻を解消しても構わないと言われた時。嫌だった。王都へ戻れと言われるのも嫌。昔の婚約へ戻されるのも嫌。それ以上に。ヴァルドの妻ではなくなることを想像した時、胸の中から何かを引き抜かれるような感覚があった。恋。なのかもしれない。まだ、その言葉を簡単には使いたくない。けれど。ここにいたい。それは。もう。かなりはっきりしている。「……そういうことなのかな」独り言。誰も答えない。だから。自分で考える。この結婚が始まった理由。王家から自分を守るため。強制的に王都へ連れ戻されないため。恋愛ではなかった。ヴァルドも。自分も。そこは正直だった。でも。始まりの理由と。今続けたい理由が。同じである必要はない。リゼットは寝台を出た。顔を洗う。着替える。
第38話 王都から届いた婚姻無効の訴え王都からの使者が北方砦へ到着したのは、ミレイユが資料室の見学を始めて三日目の昼だった。その日は朝から雪が降っていたものの、風は弱く、砦の中には久しぶりに穏やかな空気が流れていた。リゼットはノエルと一緒に歴代祈紡ぎの記録を年代順へ整理し、ミレイユは少し離れた席で古い王宮関係者の名簿を読みながら、分からない名前が出てくるたびにガレスへ尋ねていた。「この人、王宮魔術院長と書いてあるけど、その次の年には神殿へ移ってる。どうして?」「それだけでは分かりませんな。栄転かもしれませんし、実質的な左遷かもしれません」「王都では、左遷なのに『ご本人の信仰心が厚く』とか言います」「北方でも似たようなものですよ。人間は都合の悪いことへ、もっともらしい名前をつけるのが好きですから」「それ、お姉様たちが調べた祈紡ぎの『療養』とか『静養』と同じ?」ガレスの表情が少しだけ変わった。「……そうかもしれません」以前なら、リゼットは妹がそういう話へ深く踏み込むことを止めていたかもしれない。まだ回復途中なのだから、重いことは知らなくていい、怖いことは自分が引き受ければいいと思っただろう。今は何も言わず、自分の書類へ視線を戻した。ミレイユが知りたいと言ったのだ。なら、自分で知って、自分で怒って、自分で迷えばいい。その代わり、疲れていないかだけは時々見る。そこまでなら、たぶん過保護ではない。「リゼット様」ノエルに呼ばれ、顔を上げた。「何です?」「今、妹君の方を三回見ました」「……そんなに?」「はい」「監視ではありません」「分かっています」
第37話 妹はすっかり元気で、少しうるさいミレイユが「もう寝台の上でおとなしくしている必要はありません」と医師から言われたのは、リゼットが湖へ出かけた翌日の朝だった。ただし。完全に元通りという意味ではない。呪いによって長く体力を奪われていた身体は、見た目ほど簡単には戻らない。高熱が続いた期間も長かったし、北方まで無理な移動をしたこともある。だから医師は、散歩は一日二回まで、階段は一度に上り下りしすぎない、食事を残さない、疲れを感じる前に休むように、と細かく条件をつけた。「最後の一つ、難しくない?」診察を終えたミレイユが不満そうに尋ねる。「難しくない」医師は即答した。「疲れる前にどうやって分かるんですか」「少し息が上がる、身体が重い、集中しづらいなど、前触れがあります」「でも、その程度ならまだ動けますよね」「動けるから動く、を繰り返した結果、北方まで病人の身体で逃げてきたのはどなたでしたか」ミレイユが黙った。横で聞いていたリゼットは、思わず口元を緩める。「笑わないで、お姉様」「笑ってない」「口が笑ってる」「少しだけ」「最近、お姉様、私に遠慮なくなったよね」その言葉に。リゼットは一瞬だけ、考えた。以前の自分なら。妹の機嫌を損ねないように。病人なのだから。つらいのだから。と。かなり気を使っただろう。ミレイユが少し不満そうな顔をするだけで、すぐに「ごめんなさい」と言ったかもしれない。今は。「嫌?」聞いた。
第36話 今の私には触らないのですか翌日の午後、リゼットは北方砦の正門前でヴァルドを待っていた。湖までは馬車で半刻ほど。その先は少し歩くらしい。前の自分が行ったことのない場所。昨夜、記憶帳へ『今度は、私が先』などと書いたせいで、朝から妙に気持ちが浮ついている。自分相手に何を競っているのだろうと思う。思うのだけれど。それでも。前の自分が知らないヴァルドを一つ増やせると思うと、嬉しかった。「早いな」声に顔を上げる。ヴァルドが砦から出てきた。黒い外套。いつものように腰へ剣。その後ろには護衛が二人。以前なら、護衛がいることへ少しがっかりしたかもしれない。今は。仕方がないと分かっている。「公爵様が遅いのです」「約束より十分前だ」「私は十五分前からいました」「それは君が早すぎる」「楽しみにしていたので」口から出た。ヴァルドが止まる。リゼットも。一瞬遅れて。何を言ったか気づいた。「……湖を」付け足す。「湖を楽しみにしていました」「そうか」ヴァルドは、それ以上何も言わなかった。ただ。少しだけ。顔が柔らかくなった。馬車へ乗る。二人。向かい合わせ。以前は同じ馬車へ乗ったこともあったのだろう。







